新日本書紀-真実の古代史を求めて 新日本書紀-真実の古代史を求めて

邪馬台国の位置問題

邪馬台国=大和国説とユダヤ征服王朝説に基づいた魏志倭人伝と記紀等の解釈により邪馬台国問題の正答を明らかにしました。今までに邪馬台国問題の正答が明らかにされたことはありませんから、「倭の邪馬台国」は邪馬台国問題の新しい答えを提示しています。そして、正答ですから、邪馬台国問題を解決できます。一世紀から三世紀までの真実の日本の歴史を「倭の邪馬台国」で明らかにしています。

卑弥呼像イラスト
卑弥呼像

邪馬台国=大和国説

 

邪馬台国の位置については、畿内説と九州説が対立してきました。『新日本書紀』は「魏志倭人伝」の解釈等を行い、邪馬臺国が大和国に在ったことを明らかにしています。魏の使節が実際に倭国まで行きながら方角を間違えるはずが無いので、邪馬台国は畿内にあるが、魏の使節が南方にあると思い込み、誤って「東」を「南」と書いたという立場は採りません。魏の使節は、邪馬台国が畿内にあることを知りながら、故意に南方にあると報告したという説を採ります。

そして、古田武彦氏の以下の主張1から8を正しいと認めます。


古田説主張1

『三国志』「魏志倭人伝」には邪馬臺国という国名は存在していない。女王卑弥呼のいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いておらず、邪馬壹国と書いてある。 (古田武彦『「邪馬台国」はなかった』古代史コレクション①、ミネルヴァ書房、第一章「それは「邪馬台国」ではなかった」)


古田説主張2

「魏志倭人伝」には「会稽東冶」とは書いておらず、「会稽東治」と書いてある。当該個所を検討すると、「会稽東治」の直ぐ前が、夏后少康の子が会稽に封じられ、その夏の感化が倭人に及んでおり、それが風習化して、今も倭人の中に伝えられているのであろうと推定している部分だと理解できる。また、会稽東治を東冶に改めたのは、後漢書を書いた范曄である。彼は魏の時代には会稽郡の中に「東冶」という土地があったという知識から、「魏志倭人伝」の「東治」を「東冶」に改定した。このように理解すると、原文どおりの「東治」が正しい。 (『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅰ「禹の東治」)


古田説主張3

「魏志倭人伝」には「景初三年」とは書いておらず、「景初二年」と書いてある。歴史を検討すると、「景初二年」が正しい。 (『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅱ「戦中の使者」)


古田説主張4

「魏志倭人伝」には対海国」「一大国」と書いてあるのに、後代に「対馬国」「一支国」へと改定されている。この後代の改定には史料批判上の根拠が無く、「対海国」「一大国」が正しい。 (『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅲ「海彼の国名」)


古田説主張5

『 混一彊理歴代国都之図こんいつきょうりれきだいこくとのず』という地図では、倭国が范曄(はんよう)の主張に従って「会稽東冶」の東に描かれており、陳寿の主張を基にしたものではない。よって、『三国志』を書いた陳寿は倭国が帯方郡の東南にあるという正しい地理を認識していた。また、「魏志倭人伝」の「南」を「東」を意味するとみなすことはできない。陳寿には「南」を「東」と書く癖などもないので、「南」は「東」の誤りでもない。 (『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)


古田説主張6

「陸行一月」は「陸行一日」を意味するものではない。 (『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)


古田説主張7

『三国志』内の里程基準は、すべて一定している。それは前代(漢など)、後代(唐など) の里程基準とはいちじるしく異る。しかし、いずれも、実測値としての基礎の上に立った、ほぼ正確な表現である。 (『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅱ「榎説への批判」)


古田説主張8

魏においては貳にが嫌われているのに対して、壹は反対に二心なき忠誠心を示す。邪馬壹国の「壹」は卑字ではない。 (『「邪馬台国」はなかった』第五章「「邪馬壹国」の意味するもの」)


主張1から8を前提として古田氏は邪馬壹国が筑紫にあったとします。しかし、主張1から8を前提としても、私は邪馬臺国が大和国にあったと考えます。古田説すべてに同意するなら、結論も同じく邪馬壹国が九州にあったということになるでしょう。しかし、私は、以上の前提から導かれる古田氏の主張及び他の点に関する古田氏の主張に同意出来ないものがあります。そのため、邪馬臺国が大和国にあったと主張します。

古田説に対する私の立場を要約すると、


  • 邪馬臺国から邪馬壹国への国名変更が行われた。
  • 「会稽東治」「景初二年」「対海国」「一大国」が正しい。
  • 「魏志倭人伝」に書かれている方角は故意に歪められたところがある。
  • 「魏志倭人伝」は長里で書かれている。
  • 魏の使節は伊都国までしか行っていない。
  • 「魏志倭人伝」は連続式で読むのが良い。
  • 壹は卑字ではない。

ということです。

以上を前提とした上で、方向改定だけは無しで、「魏志倭人伝」の行程等を読むと、「魏志倭人伝」は邪馬壹国が「南の遠方」かつ「呉国の東方」にあることを主張していることが確認できます。「魏志倭人伝」は邪馬壹国が畿内に在るとも九州に在るとも主張していません。

しかし、正しい地図を見れば、「魏志倭人伝」の主張する呉国の東方に倭国は在りません。「魏志倭人伝」は虚偽を主張しています。私は、「魏志倭人伝」の基となった報告書を提出した魏の使節は、政治的動機からそのような虚偽を含ませたと考えます。

但し、真実の情報も多く含まれていなければ、単なる虚偽文書になってしまいます。よって、虚偽とするのは、政治的に「倭国が南の遠方にあり、倭国が呉国の東の近いところにあり呉地に出兵できる」という主張をするのに必要な部分に留めたと考えます。

以上に基づいて、私は「魏志倭人伝」を矛盾無く解釈できました。

邪馬台国は、古田武彦氏の指摘したとおり、国名が「邪馬壹国」の時代がありましたが、それは、改名の結果でした。大和国を支配した邪馬台国は、三世紀初めから倭国の国々の宗主国でした。

 狗奴国は九州南部の熊襲の国であり、辺境で邪馬台国に対抗した時期もありましたが、邪馬台国と対等ではありません。  

「倭の邪馬台国」は三国志等と記紀を解釈して、邪馬台国と倭国の歴史を解明しました。正当な評価を受ければ、「倭の邪馬台国」によって、「邪馬台国」論争は確実に終結するでしょう。


ユダヤ征服王朝説

ヤマト王権成立の事情を説明する学説に騎馬民族征服王朝説というものがあります。朝鮮半島から筑紫に上陸した騎馬民族が倭国を征服してヤマト王権を打ち立てたとするものです。

新日本書紀では、騎馬民族ではなく、ユダヤ人が倭国を征服してヤマト王権を打ち立てたと考えます。

日ユ同祖論があります。日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)が共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説です。日本には確かにユダヤ文化の痕跡があります。しかし、普通の国民の遺伝子にはユダヤの痕跡が見られません。そこで、支配者である天皇氏がユダヤ人(古代イスラエル人)と共通の先祖を持つ兄弟だと考えるのです。日本の皇室の先祖はユダヤ王家ということになります。

そして、ユダヤ人達はユダヤ文化の核心を捨て去って証拠を湮滅するとともに、ユダヤ人による倭国征服の歴史も隠して証拠を湮滅しました。

このユダヤ征服王朝説に立つと、古代史の諸問題が解決でき、ひいては現在に至る歴史の意味も分かります。

古代史の諸問題解明の成果を新日本書紀で御覧下さい。


漢字の音読みについて

魏志倭人伝の漢字を音読みする場合、日本の漢和辞典の呉音と漢音を使用すべきです。漢音は古代中国北方の言語に由来し、呉音は古代中国南方の言語に由来します。古代の日本においては、七世紀前に中国北方の漢音も伝わっていましたが、弥生人が中国南方系だったので、呉音が優勢でした。桓武天皇が延暦十一年(792年)閏十一月二十日に、漢音奨励の勅を出しているのはそのためです。日本語は変化が少なく、呉音と漢音は古代日本の音を保存しており、古代日本の音は、古代中国の音に由来しますから、呉音、漢音は魏志倭人伝の解読にも使用できます。「倭の邪馬台国」も呉音と漢音で音読みします。

ところで、「奴」の呉音はヌ、漢音はドです。しかし、奴国はナコク、蘇奴国はソノコクと読めると考えます。なぜなら、「奴」が「やっこ」、すなわち召使いという意味を持ちますので、中国人が倭国を見下して、「奴」(ヌ)と同じナ行の「ナ」や「ノ」の音にまで、好んで「奴」の字を当てたと考えられるからです。

ページトップへ ▲