論文「継体天皇の系譜考」
現王統の祖である継体天皇の系譜については議論があります。その問題を解決するために、継体天皇の父系と母系が入れかえられているという新説を案出しました。合理的推論により、継体天皇の系譜に関する真実を発見したと考えています。
内容一部引用
はじめに
継体天皇は、太平洋戦争後、応神天皇五世というその特異な出自が議論の対象になった。『日本書紀』は、継体天皇の父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世(1)の孫、母親の振媛を活目天皇(垂仁)七世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。一方、『古事記』も継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えている。『古事記』も、『日本書紀』同様に系譜は不明である。『記紀』の記述には、応神天皇から継体天皇に至る六世代の系譜は述べられていない。
この論文は日本歴史学会に投稿し、不採用となったものです。
講評は、
「『上宮記』の「凡牟都和希王」を、応神天皇ではなく、垂仁天皇の皇子である「誉津別命」にあてる説はすでにあり、この点について本論文の新規性は認められない。一方、「新説」を導くにあたっては、確実な根拠にもとづいた堅実な論証がなく、恣意的な推論しかなされていないので、「新説」の妥当性を判断しょうがない。」というものでした。
これに対し、私は以下のように弁明しました。
「『上宮記』の「凡牟都和希王」を、応神天皇ではなく、垂仁天皇の皇子である「誉津別命」にあてる説」が吉井巌氏等、既にあることはよく承知しており、私の論文は、この点につき、新規性を主張するものではありません。しかし、吉井巌氏は「誉津別命」に始祖性を認め、即位した大王としての伝承があったとしています。これに対して、私は「誉津別命」があくまでも垂仁天皇の皇子であり、その系譜をつぐのが若野毛二俣王ではなく、磐衝別命がその系譜を継ぐとしています。
「恣意的」と言われて、思い当たるのは次のことしか有りません。
旧稿では、「新説では、継体天皇は、父系では垂仁天皇九世の孫、母系では垂仁天皇八世の孫となり、一代しか違わず、不自然ではない。」と述べた上で、「母系は、『垂仁天皇 → 景行天皇 → 成務=仲哀天皇・神功皇后(私見による) → 応神天皇 → 若野毛二俣王 → 大郎子 → 乎非王 → 振媛 → 乎富等大公王(継体天皇)』。」としています。私見では、垂仁天皇から継体天皇に至る世代を九世代だとしています。
これに対して、新稿では、「『記紀』の系譜で世代を数えると、垂仁天皇から継体天皇までは、『垂仁天皇→ 景行天皇→ 日本武尊→ 仲哀天皇・神功皇后→ 応神天皇→ 仁徳天皇→ 允恭天皇→ 雄略天皇・市辺押磐皇子→ 清寧天皇・仁賢天皇→ 武烈天皇・継体天皇』」であり、十世代として、父系と母系で世代数の違いは無くなるとしています。
この点については、旧稿では、日本武尊を数え忘れるうっかりミスをして、九世代と主張する間違いを犯しました。それにより、新稿と旧稿で矛盾が生じたのです。成務天皇と仲哀天皇を同一人物とする私の新日本書紀研究でも成務=仲哀天皇は、日本武尊の子であり、その日本武尊は景行天皇の子となっています。ご存知のように、『記紀』では成務天皇を日本武尊と同世代、仲哀天皇を日本武尊の子としています。
宜しくお願い致します。
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記
「継体天皇の系譜考」